8月15日

1945年8月15日正午、玉音放送は雑音ばかりでよく聞こえなかったが、朝からの上官の表情や周囲の話で敗北は知っていた。
しかし、あらためて敗北が現実となり、これからどうなるのか皆目見当がつかず、漠然とした不安だけがつきまとっていた。
9月11日、正式に復員が下令された。一千数百人ほどの兵員で構成する部隊が解散することとなった。
ところが、私は、根古の部隊本部から小野小学校の部隊へ転属を命令された。
そこでの任務は、各隊から軍事物資が部隊本部へ返還されるため、それを集約して宮城県庁へ引き渡す管理作業だった。
一千数百人もいた部隊は散ってしまい、残留要員は幹部2人、一般兵5人のわずか7人。私は不運にもその一人に選ばれてしまった。
返還物資は、主に、被服・毛布・食料、陣地構築材料などだった。
各部隊から返還される物資の管理作業もほぼ終了した12月1日、私たち残留者にも復員命令が出た。そのとき、毛布や食糧品(醤油、大豆、米、麦)など、返還物資が貨車一両分も残っていた。
上官たちはさっさと物資に荷札をとりつけはじめた。送り先はそれぞれの実家だった。
要するに物資の横領である。
私も実家に送ってやりたいと思った。
しかし、実家は貧しく、軍需物資など送れば近所に目立つ。
実家には送れないが、威張りくさった上官たちの卑怯さを見逃すのもいまいましい。
私にやさしくて誠実な人柄の部隊長O大佐は先に復員していた。
よし、部隊長にお歳暮だ。
夜、闇にまぎれて、明朝、日通に運ばれる予定の運搬車に忍び込み、数個の物資の荷札を部隊長の実家の住所を書き込んだ荷札に付け替えた。翌日、何事もなく貨車は運ばれていった。
私の顔は、上官を出し抜いた愉快さと、帰郷できる喜びできっと崩れっぱなしだったろう。

兵役を解除され、帰ってきた時、わが故郷は一面雪だった。
両親との再会を喜ぶのもつかの間、農地は痩せ、生活物資の欠乏は想像以上だった。
『信念の旗は高く 長谷川 政一』より抜粋

1924年(大正13年)生まれの父方の祖父は、
17歳で川井村信用販売購買利用組合に就職するも、
18歳で三菱重工名古屋航空機製作所に徴用され、
20歳で徴兵、宮城県小野村の護仙二〇四部隊へ
21歳で敗戦、残務整理後、12月に復員し、故郷小千谷へ戻りました。

戦中、戦後の実体験から、「国民が主権者であり、その立場から民主主義を貫くことが世の中を明るくし、豊かな自然も守ることだという信念」を貫いた人です。

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